1976215 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

三河の住人の庵

三河の住人の庵

岩国城

2012.08.27登城  2012.09.02作成

戦国時代末期 中国地方8カ国3郡 112万石の大大名であった毛利輝元は、慶長5年(1600年) 関ヶ原合戦で西軍の盟主となった。
この時 東軍の勝利を予測した広家は家康に誼みを通じ、南宮山に陣取る毛利軍を足止めした。
 その功により 毛利氏は改易こそまぬがれたが、徳川氏の処置は厳しく、防長二国を安堵されるにとどまった。
出雲国月山富田城12万石領主であった吉川広家も周防岩国3万7千石(後6万石)に移封された。

 岩国城は慶長13年(1608)、5年の歳月をかけて完成した、3層4階の上に物見を置く桃山風南蛮造りの山城であった。
しかし わずか7年後の元和元年(1615)幕府の一国一城令により破却され 以後 山麓の城館で政務が執られた。

  • 岩国旧天守台.JPG

(旧天守台)


  • 岩国元朝登城図.JPG

(元朝登城図の部分)


昭和37年3月 ハワイ岩国市人会はじめ多くの市民の募金等により復元再建された。
再建にあたり錦帯橋付近からの景観を考え旧本丸南側に移動した。

  • 岩国城.JPG


  • 岩国城5月.JPG



天守閣まで麓からロープウエイで上がれる。頂上からは 眼下に錦帯橋 そして彼方に 在日アメリカ海兵隊岩国基地とその向こうに瀬戸内海が見える。

  • 岩国基地.JPG



城下 横山地区の一角に 「吉川経家弔魂碑」がある。

  • 吉川経家弔魂碑.JPG


「天下統一を目指す織田信長は、天正8年(1580)6月、羽柴秀吉をつかわして鳥取城攻めを開始した。鳥取城主山名豊国は、場内の多数の意見を無視して秀吉に降伏し、城外に脱出した。豊国の家臣達は吉川元春に城将の派遣を要請し、元春は石見国温泉津福光城主吉川経家に命じて城将とした。天正9年3月、経家が入城し城内を調査したところ、貯蔵された食料がわずか3ヶ月分しかなく、食料の補給を図ったが、場内に搬入しようとする輸送船は、すべて秀吉に捕獲された。
時日が経過するに従って餓死する者が続出し、その惨状は言語に絶した。開城の条件として、城兵全員の救助を誓約し10月25日「天下を争う織田、毛利両家の二つの弓矢の場で切腹する自分を名誉に思う」という遺書をしたため、城内広間において35歳の命を絶った。その子孫は岩国藩に仕え、藩政に貢献した。
その英魂を弔うため、昭和14年弔魂碑が建立され、礎石に鳥取城の石12個が使用されている。なおこの場所は、江戸時代にその吉川氏の屋敷があった所である」



© Rakuten Group, Inc.